「労働」の再定義

 今週、カミさんと2人で、二つの障害者施設の見学に行った。学校(高校)を出た、障害のある人が通所する施設だ。

 実は1年くらい前から、晴子はもう中卒でいいな、ということを2人で決めていた。なぜかというと、晴子の行っている特別支援学校(昔で言うところの養護学校)で行われる教育は、大きな目で見れば中学部であっても高等部であってもさして変わるものではなく、それだったら早く娑婆の風が当たる場所で生きさせてやりたい、と思ったからだ。障害のある子を2人持つ、という、他ではそうそうない経験をさせてもらっている僕らが、10年を越える長い年月の間に培った疑念とは、障害のある人を、障害のある人たちばかりで一緒にいさせることには、何か大きな間違いがあるのではないか、ということだ。こういうことを書くことが、そういう場所で長年暮らしてきた障害者ご本人たち、あるいはそこで過ごさせていた親の人たち、そして障害児教育や福祉に職業人として携わってきた人を敵に回す行いであるということは十分に分かっている。だけど、もう、時代は次のステップを要求しているように思う。もちろん、僕たちはあくまでも自分たちの子のことしか知らず、この考え方を障害者の社会の一般論として訴えるには知識も研究も不足している。しかし、とりあえず、自分たちの2人の子については、もうこれ以上はゴメンだ、という気持ちがある。

 それが故に時生を普通小学校に入れるということに僕たちは激しく執心し、それを実現し、2年半が経った今、自分たちの選択は決して間違っていなかったどころか大正解だったということを実感している。当初、このことに懐疑的だった人までもが、彼が普通小学校にいることをどうやら大いに喜んでいてくれるらしい。

 一方の晴子の方は、初期に僕たちが無知蒙昧だったせいで、これまでの障害児教育という枠組みを疑わなかったせいで、すでに敷かれたレールに乗せてしまった。やっかいなもので、一度乗った列車からはなかなか降りられないのである。本人的にもすっかり座席にお尻がなじんでしまったせいで、今更別の列車に乗り換えるのがしんどい、というところもある。そこで彼女が中学校に上がる際に我々親は特別支援学校を選択したわけだったが、それにはひとつ条件を付けた。「副籍制度」というものを使って、週のうち、少しでも近所の普通中学校の授業に参加させてもらいたい、ということだった。それは例の新型インフルエンザの流行のせいで、なかなか始めることができなかったのだが、今年に入ってから、1週間のうち、火曜日だけ、ヘルパーさんと一緒に近所の中学校の音楽の授業などに行っている。そこには、かつて学童保育クラブで一緒に遊んでいた子どもたちもいるので、彼らは「晴ちゃん」と声をかけてくれる。嬉しいことである。

 そんな晴子もあと一年とちょっとで中学もおしまいである。小学校はそれなりに長かった感じもあったけど、中学は早いねえ。それで、普通の人は高校に行くようだ。あ、ここで言う「普通の人」というのは「障害のある人」という意味だ。ややこしい。というのは、昨年のある時期に、行政の人に、作業所とか授産施設と呼ばれるような場所について尋ねたところ、高校を出た人を対象にしか考えてない、過去に中卒で入った人はいない、ということを聞かされたのだ。ということは、みんな高校には行っているんだろう。しかし高校は義務教育じゃないのに、みんな行ってるってのも不思議な話だと思う。もっとも、全部の人の統計でも1974年からこっち、高校進学率は90%を越えているという(ウィキペディアにはそう書いてある)。一方で、高校に入ってからなんらかの理由で辞めなくちゃならない人が8%いるという記事が、今出ている「The Big Issue」という雑誌(ホームレスの人たちが街頭で売っているあれ)に載っているという。

 中卒は前提としてない、とは言うものの、実際のところ、どんな様子なんだろうという興味があって、秋のこの時期に施設の見学会があるというので、2カ所ほど見に行くことにした。万が一、それが素晴らしいものであれば、ごり押ししてそっちに行かせてもらえないか、という考えも少しはあった。まあ、そうでなくても、学校を出た後の生活について、何かヒントのようなものがあるといいな、と。具体的に考えていたわけではなかったけれど、なんとなく、そんなことを意識の底に忍ばせてはいたと思う。まあ、甘かったね。(つづく)