ミナ ペルホネン展

 先日、前の会社の先輩と表参道で昼食。その帰りにちょっとスパイラルを覗いた。ここはなんかちょっとオシャレ目の食器だとか文房具だとかそういうものを扱うお店が入っている。CDのセレクトショップもある。セレクトしすぎ、というくらいに小さいスペースに限られたものが置いてあるのだが、うん、いい趣味だ。

 実のところ、このスパイラルというビルの一番上の階で、およそ20年前(今度の12月16日でちょうど20年だ)、僕と妻は結婚したのだった。いわゆる「式」でも「披露宴」でもない、自前のパーティーみたいなことをしたのだった。その時はまったく感じていなかったけれども、僕らもまた、あの「バブル」という時代の真っ只中にいたのだなあ、と苦笑してしまう。その後は、いろいろあったな。いろいろありすぎた(笑)。ずいぶんと、大人になったよ。

 それで、やってることも知らなかったんだけど、1階から2階にかけて、「ミナ ペルホネン展 『進行中』」という題名の展覧会をやっていた(無料。20日まで)。<ミナ ペルホネン>というのは、日本人の皆川明という人が'90年代の半ばに始めたブランドで、凝ったテキスタイルや服を作って売っている。と、さも知ったように書いているが、この展覧会で初めて知ったのだ、実は。それまでは、なんとなく、オシャレ系の雑誌で、その名前を目にしていた、というくらいのもの。ちなみに<ミナ ペルホネン>というのはフィンランド語で、「ミナ」が「私」、「ペルホネン」が「蝶」だという。

 いや、素晴らしかった。この皆川という人や、この会社のデザイナーが新しい布地を作るために描いたスケッチや原画がたくさん展示され、その完成形の布地や服も並べてある。とにかくそのデザイン、図案の多彩さがまず面白いし(まるで絵本の絵でも見ているような、わかりやすさ、楽しさ、色のキレイさ、バラエティの豊かさだ)、それを布にプリントしたり、刺繍したりすることによって実現する、その過程にかかわる日本の工場の職人たちの「技」のすごさにも感嘆。創作のためのメモ書きから(書かれていることはけっこう青臭い、というか、恥ずかしげもなく、というものもあるのだが、これだけの作品が実現しているという事実を前にすると、文句も言えない)、工場へ「ここをこうしたい」といったような指示を書いたファックスまで展示されていて、「ものづくり」というのはここまでどん欲に、また丁寧にやらないと、人を感動させるモノには仕上がらないのだな、ということが伝わってくる。完成形だけを見れば、まことにオシャレなものなのだが、そこに至るまでのプロセスには「執念」とか「業」とか、そういった言葉の似合うような、ドロドロとした何かが渦巻いているのだ。

 なにしろ無料だし、失うものは何もない。お近くにお立ち寄りの際は是非。もちろん、服とか、デザインとか、アートとかに興味のある方は、用事がなくても表参道に行くべきだと思う。展示物もいいが、展示空間の作り方も素敵だし、コーナーのひとつひとつに設置された黄色い紙の解説ペーパーみたいなものも、とってもオシャレだ。全体のアート・ディレクションをやっているのは、グラフィックデザイナーの菊地敦己である。

 それで、あまりに感動してしまったものだから、お店にも行ってみた。実は直営店が、今自分が働いている職場のすぐ近く、港区の白金にあるのだ。昼休みの時間に、そういうことをよく知っている会社の女子に連れてってもらった。別に僕は男一人でもそういう場所に行くのに抵抗はないのだが、そもそも場所をよく知らなかったし、誰かと行けばいろいろと学ぶことも聞ける。

 白金には二つの店舗があり、二つ目の方はこの9月にオープンしたばかり。そっちは、これまでにデザインされた生地の蓄積という感じの場所。服の形になったものもあるが、生地の反物もたくさん。どれも素晴らしいが、1mあたり13,000円とかする。刺繍の凝ったものだともっと高い。相場をよく知らないけれども、まあ、ここまで凝ったものだから、それくらいはするよなあ、と思ってしまう。なにしろ日本で作っているし。僕の仕事の分野でも時々思うことだけど、日本でものを作るというのは、それだけでものすごく割高になってしまうということがある。もちろん、だからモノがいい、ということもある。魅力的な生地がいっぱいあって、これでシャツを作ってみたいなあ、なんて思ったりした。ただ、ミナではそういうオーダーは受けてなくて、生地を買ってどこか余所で仕立ててもらうしかない。

 もう一軒の方、こちらが母屋なのだが、そこでは今年の秋冬もののコレクションがズラリ。全体に渋めの色調で、シェイプもどこか農村風。それが最近はやりの「森ガール」にはグッとくる部分なのだろうが、しかし、ちょっと渋すぎやしねえか。一緒に行った女子との会話。

「いやー、でも、これって、結構際どいよな」
「そうですよ。一歩間違えれば、ただの田舎の人ですよ」
「一着買ったところでなあ…」
「合わせられるものがないっていうか…」

 あとね、何度も言うけど、高いです。値段のことばっかり書くのって、貧しさを自慢してるみたいでヤだけど。カットソーでも2万円。もちろん、肌触りは良い。そうそう、展覧会では触れないのがすごくフラストレーションたまったんだけど、お店であればいくらでも触れるからね。いや、何がどう違うのかなんてのは分からないけど、その触感になにか官能的なものがあることは分かる。その部分が、単なるグラフィック・デザインとは大きく違う。自分の肌に触れたときの、あるいはその服を着たときに抱いてくれる相手の指先の、官能までも勘定に入れる。計算が何乗にも大変になってくるだろう。それが面白くてこの仕事をするのだろう。

 ちょっと上に着るモノだと平気で7万円とかの値札である。おまけに凝ってるだけに重い。凝れば凝るほど重くなる。ここがジレンマでしょうなあ。「服」というよりも「衣装」という言葉にした方が良いような。この重さのものを女子は着て歩くことができるのだろうか。人ごとながら心配してしまう。

 展覧会ではビビッと電撃をくらった。しかし、いざ、こうして見ると、ちょっと疑問も頭をもたげてくるのだ。これはもうほとんど「アート」の領域であって、日常的に身にまとうモノとしては敷居が高すぎるのではないか。前にもこのブログに書いたけれども、僕がもし7万円の服など着ていたら、その日はもう一切、食事なんか取る気が失せるように思える。ケチャップとかカレーとか食べこぼしたらそれで終わりじゃん! 

 いやそれを我慢しても、こういうものを今着ている自分、というのが楽しくて、嬉しくて、という境地もあるんだろう。それはそれでいいと思う。

 いやー、なかなか難しいものですね、服って。

 スパイラルの展覧会、おすすめしておきます。

 情報はコチラで。