円楽の死。

詳しくはないけれど、落語は好きで、近所のホールで公演があれば行ったりするし、国立演芸場に出かけたこともあった。寄席にも一度だけだが会社の同僚たちと連れだって新宿の末広亭に繰り出したりもした。

三遊亭円楽が亡くなった。特別に思い入れがあるというわけでもないけれど、多分、小学生の高学年くらいの時に、僕は田舎、山口県防府市公会堂でこの人の高座を見ている。はずだ。とにかく昔のことでよく覚えていないのだけど、多分、隣には父親がいたと思う。昭和40年代の山口県で落語と言えば、どう考えたって「笑点」で名前の売れている人でなければ興行が成り立つはずもなく(だけど、「笑点」がいつ始まったのかよく知らない)、当時、円楽はもちろん司会などではなく、真ん中あたりに座っていた。一番左が歌丸で、右端が小円遊で、この二人がお互いの悪口を言い合っているのが一つのお約束になっているような時代だった。司会は……あの当時、三波伸介だった? 同じ日曜日にやっていた「てんぷく笑劇場」と混同しているのかもしれない。座布団運びは山田君ではなく、「手を挙げて、横断歩道をわたりましょう」と言う、入道のような松崎真だった。

それで、防府市公会堂の円楽を見て、僕は子ども心に「上手いなあ!」と思ったのだった。演目は覚えていないけれど、彼が得意とする人情噺で、クライマックスの迫真の盛り上がりは唸らせるものがあった。もしかしたらその後にも見る機会があったかもしれないけれど、はっきりと覚えているのはその時のことである(ちなみに、回数で言ったら、まあ、それも「数回」のレベルだけど、一番見ているのは談志の高座だと思う)。

知ってる人がどんどん死んでいく。これが年をとるということなのでしょう。黒澤組の美術監督、村木与四郎も亡くなった。ちょうど、雑誌でのレビューのために「影武者」のブルーレイを観なくちゃならなくて、うーむ、という感じだった。