釜山旅行記 1日目

というわけで、もう帰ってきているんですけれども、釜山旅行を日を追って振り返ってみることにします。

そもそも、今回の旅行の発端は、以前からお話している「空飛ぶ車いす」という活動を知ったことにありました。財団法人日本社会福祉弘済会(ニッシャサイ)というところが、日本で不要になった車椅子を、工業高校の生徒などに修理・整備させ、それを必要としているアジアの国々の子どもたちに届ける、ということをやっているのです。工業高校の生徒さんたちもボランティア、アジアに届けるのも、そちら方面に旅行する人にボランティアを募って、飛行機の手荷物として運んでもらう。

日本では障害のある子たちの車いすは助成が出るので、我々親はほとんど無料で手に入れることができます(特別なオプションなどは自費)。実際にそれらを買おうとすると20万円とか、平気でします。そんなに数の出るものでもありませんしね。「車いす」というと、よく病院などで入院患者さんたちが一時的に乗っているような出来合いのものを想像される方も多いと思いますが、障害のある子の車椅子は、その障害のあり方、身体の状態に合わせる形です。各社が作っている様々なタイプの車いすからまず選んで、さらにそれに改良を加えていくようなセミ・オーダー・メイドとでも言うべき仕様になっています。

子どもたちはどんどん身体が大きくなってきます。そうなると車いすは小さくなってきます(ありがたいことに、日本では、また新しいものを作ることも助成でできます)。では、小さくなった車いすはどうするか。

晴子の最初のも、時生の最初のも捨ててました。もったいない!

最近になって「空飛ぶ車いす」のことを妻が聞きつけて、これはいい、という話になりました。ちょうど昨年、時生の車いすを3台目のものに変えたのですが、まだ2台目がベランダで埃をかぶっていたのです。

宅配便でニッシャサイに送られた車いす大森町にある大森学園高校の生徒さんたちによって整備されました。その模様はこのブログの前の記事にあります。

で、受け入れ先はどこになるんだろう、もし学校が夏休みの間だったら自分たちで届けに行くのもいいな、と言っていたら、上手いことに今のこの時期に、お隣の韓国は釜山の子どもに、ということになりました。

おまけに時生の使っていた車いすのみならず、他に4台の車いすを運びたい、という話になりました。晴子と時生が乗っている車いすも含めると計7台! 飛行機に持ち込める荷物の重さには制限がありますから(今回使った大韓航空では一人あたり20kgまで)、行く人数が多ければ、それだけ沢山運べることになります。我々一家は4人、一緒に行くヘルパーが1人、さらにニッシャサイのスタッフである佐々木さんも同行するということで、計6人。120kgまで超過料金なしで運べる計算です。

車いすたちは既に成田空港に先に送ってありました。わが家の大きなスーツケースも。まずはそれを受け出すところからスタートです。

写真は成田エクスプレスで空港に向かうわが家。


まずは大韓航空のカウンターでチェックインしなくてはならないわけですが、預けるスーツケースに加えて、車いす4台(空港に送ってあった5台のうち、1台はこの後、バリ島に行くべきものだったらしい)の重量も量らないといけません。あのベルトコンベアー直結の台に乗せては下ろし乗せては下ろし。そしてひとつひとつに"FRAGILE”(こわれもの)と書いた赤札をぶら下げるのですが、その裏に「破損しても航空会社の責任は問いません」と書いてあり、私はそこにひたすらサインをし続けるのでありました。

あれ、晴子と時生の乗っていた車いすの重量は量ったんだっけ!? でも、二人を車いすから下ろした記憶はないし……なんとなく目分量で係の人が足してくれたんでしょうか……とにかく総重量がちょうど120kgくらいになり、超過料金は発生しませんでした。

ちなみに、預けた荷物の中には、風呂場で使うための折りたたみ式のシャワーチェアー(金属製のフレームに網を張ったようなものです)や、いざという時のための空気入れもありました。以前、四国を旅行した際にタイヤがパンクして大騒ぎになったことがあったのです。もっともパンクは空気入れでは解決しませんが(結局シャワーチェアーはほとんど使わず……空気入れは一回使いましたね……空気の入りが弱いと停車時に動かないようにしておくためのストッパーの効きが悪くなりますし、走行時の抵抗も強くなりますし、中のチューブもヘタり易くなるので、常に空気はパンパンに入れておくに越したことはないのです……日本にいる時はけっこうサボッてて、電車に乗ってるときにストッパーをかけてもズルズル動いてしまって焦ったりします)。

国内線でもそうですが、車いすの人、障害のある人は一般乗客よりも先に搭乗させてくれます。ひとつにはギリギリまで乗っていく車いすをとっとと荷物室に積み込まなくてはならないという理由もあるかもしれません。それで14時発の便ながら搭乗ゲートに13時15分までに来てくれ、と言われました。

ところがなにしろ久々の海外。我々大人もすっかり段取りを忘れていて、手荷物のチェックやら、出国審査やらでけっこう手間を食ってしまい、大遅刻。搭乗ゲートに着いた頃には、みなさん、ぞろぞろと飛行機に乗り込んでいるのでした。「早く来てって言ったでしょう〜」と苦笑する係のおじさんに「それじゃあ、最後にしましょう」と言われ、みんなが乗り込むのを待ちます。我々の席はエコノミーの最前席と2列目。ドアから一番近い位置ですので(車いすを降りた後の移動距離が最短で済むという航空会社の配慮)、最後に乗り込むのは理にかなっております。

というわけでいよいよ離陸〜。子どもたちにとっては初の海外、柴田にとっては14〜5年ぶりの海外。パスポート、3人分新調して、これだけでも3万くらいかかってます。柴田はたしか、1993年の夫婦世界一周旅行の後に、シネマテークで行われたインド映画の特集上映を観るために単身パリに行ったのが最後だと思います(なんと自由な!)。もちろんまだ晴子が生まれる前の話。

世界一周を終わった後に「10年後に再挑戦、その時は子どもも一緒かも……」なんて呑気なことを言ってたんですが、2003年頃は晴子が小学校に上がって、時生がまだ2歳くらい……とてもじゃないけどそんな余裕はなかったねえ。

一方の僕は、その世界一周の後に、仕事関係でロスに2泊3日くらいで行って(しんどいなー)、その後、母とパッケージツアーに乗って10日間くらいヨーロッパに行ってます。これが母にとっては唯一の海外旅行ですね。これもやはり晴子が生まれる前の話で、その後はずーっとご無沙汰。しかし一昨年の春に、妻からのプレゼントで単身、台湾に5日間行きました。これは僕にとって初めての一人旅で、いやあ、なんか楽しかったですねえ。

写真は、非常時の案内を読んでる(ハングルだけど)時生など。次の写真の左がニッシャサイの佐々木さん、右がヘルパーの石ちゃんです。


成田から釜山までは2時間とちょっとです。機内食は鮭か鱒か?お魚を甘辛く焼いたのがメインで付け合わせにニンジンとブロッコリー。大人はビールをもらいました。「韓国のビール? バドワイザー?」と聞かれ、迷わず韓国のビールに。"Cass"という会社のもので、やはり何か日本のものとは違う、独特のフレーバーがありましたね。

そんなん食べてるとあっという間に到着でございます。午後4時すぎ。

入国審査は車いすマークがある端っこの方で。航空会社の人とか、もう何度も出入りするような人が使う窓口に、全員のパスポートをドンと渡して。ひとつには、普通の入国審査のカウンターって、道が細いんですよね。日本を出るとき思ったけど(帰国時にはやはり車いす専用のゲートが別にあったので、行きの時は見逃してたんだと思う)。たしかに、そこから逃走する不法入国者だっていないとは限らないわけですからね。だから、車いすの人が別の窓口になってるのは、まあ、当然っちゃ当然か。

そしてまずは荷物の受けだしです。例のベルトコンベアーのところで待ってましたが、車いす軍団は別枠で、端っこの方に係の方がまとめておいてくれました。これを佐々木さんや石ちゃんが手分けして運びます。到着ゲートに出ると、ちゃんと迎えの人たちが待っていてくれて、彼らについて空港の外へ。

その時は誰だ誰だか分かりませんでしたが、後から考えてみるに、その後ずっと通訳をしてくれることになる学生のスギョンさん、車いすを納品する先のリハビリ・センターの担当の女性、同じセンターの男性の3人がいたのかな? 車はワンボックスが1台と、普通の4ドアの乗用車(わが家、免許がないもんで、車の形容の仕方が全然分からなくてスミマセン)が1台。そこに、持ってきた車いす4台と、わが家の子たちの2台と、一行6人が乗らなくちゃいけない……ここからああでもない、こうでもないの、大パズル大会が始まって、出発できやしない(泣)。

結局、佐々木さんとスギョンさんが別のタクシーで行くことにして、出発。我々家族4人はセンターの女性が運転する乗用車に乗りました。

大体、空港のまわりなんてのはどこの国も地方も似たようなもので、最初は畑というか野っぱらというか。釜山は海の近くで、河川もたくさん。下の方に海を見下ろしながら湾曲した道路を進み、トンネルなんかをくぐっていくと、なんだか去年行ってとても楽しかった八丈島を思い出したりもします。それで橋なんか渡っちゃうあたりから、だんだん街みたいなものの片鱗が見えてきます。

しかし夕方ということもあってか、はたまた二車線しかない道路のせいか、けっこう渋滞がひどくてなかなか進まず。ラジオからは現地の軽快なポップなどが流れてなかなかイイ感じなのですが、僕と一緒に後部座席にいた時生が、助手席に座っている妻のところに行きたいとゴネだし、そのゴネ声が世界の中で一番嫌いな晴子が泣き出し、車中は阿鼻叫喚の地獄絵図……ハァ〜……海外一発目から強烈な洗礼であります……。

市街に入って行くに連れ、かなりの高層マンションが林立林立。なぜか一番てっぺんの部分は、判で押したように屋根の形に三角形を作っているのが不思議。あと、マンションのボディに馬鹿でっかくそのマンションの名前が書いてあります。日本ではなかなか嫌がられるだろうな〜(昔、結婚した直後に尾山台の環八沿いにある、昭和30年代からあるようなマンションに住んでいたのですが、そこは壁の上から下までに、金色の浮きだし文字で「自由が丘(どこがじゃ!)フラワーマンション」と書いてありました。当時は「マンション」って最新のイメージだったんだろうなあ)。イロハ的な記号としてでしょうか、何棟か並んでいる場合には、ハングルが一文字ずつ、やっぱりでっかく書いてあったりします。

絶叫と共に、納品先のリハセンに到着〜。もう6時くらいにはなっていたかしらん。とりあえず子どもたちも下ろして、距離を取って、一息つかせます。というか、着くまでそこがリハビリセンターであることも知ってなかったです(笑)。表の看板に辛うじて英語表記を見つけて知った次第。そう言えば運転してる女性がそこのスタッフだってことも後から知ったんだった……。

この日は納品だけだったんですが、明日のミーティングの場所である3階にちょっと行ってみたら、といわれるがまま、時生と石ちゃんと3人で3階へ。会議室みたいなホールがあって、そこにお邪魔。四角くテーブルが配置してあって、学生さんたちが何人かいるのであいさつ。佐々木さんがこの後、車いすのことで彼らに何かレクチャーすることになってるそうです。彼らは、我々が運んできた車いすたちを何やら検分しておりました。

佐々木さんやスギョンさんとは今日はここでお別れ。スギョンさんのお姉さんのセーヒさん(今思いだした。セーヒさんも空港の時から一緒にいたんだ)と、我々一家&石ちゃんがワンボックスに乗り込み、センターの男性スタッフが運転手になってくれて、いざホテルへ。ここからがまた遠いんですわ。

というのも、取った宿がちょいと渋めというか、ひなびた海水浴場のある松亭(ソンジョン)という場所で。空港から釜山の中心街は東の方向に当たりますが、そこからさらに東も東。そしてますます帰宅ラッシュの渋滞、渋滞。そんでもって、席取りの都合で後ろ向きに座っていた僕は、珍しく車酔いの様相を呈してきたのでした。

実は子どもの頃は本当にひどく酔いやすくて。自動車やバスはもちろん、電車でもちょっと長くなると必ず吐いてました。中学生くらいになって、なんとか克服したかなあ。まだ身体ができてなかったんですね。かなり小さい頃から耳が悪くて手術とかもしてましたし、三半規管とか、そっち系も弱かったのかもしれない。その頃は海外旅行なんてまったく自分の未来の中にはなかったことでしたが、そんな人間がやがて世界一周とかに乗り出すのですから、人生というのは本当に分からんものです。ブラジルでは連続38時間、バスに乗ってましたけれども、ぜんぜん平気だったな〜。もちろんお尻は痛くなりましたけど……あと、何も変わらない景色に飽きましたけれど。

なんて回想モードに入るからいつまでたっても宿につかない(泣)。釜山はね、ちょ〜開発中、ってカンジでしたよ。高層マンションはさらに林立から森立……と言っては大げさなれど、住みたい人が増えてるってことなんでしょうねえ。そして、センタム・シティと呼ばれるあたりには、世界一の大きさと言われるショッピングモールが!(結局行きませんでしたが)

なんとかかんとか宿に着きました。目の前には海! 海! 海!  あたりはいかにも海辺の街らしい、浮き輪とかぶら下がった商店がいっぱい。水槽を備えた海鮮の飲食店もいっぱい。

もう8時くらい。晩ご飯を食べたいものの、親も子どもたちもグロッキー……妻と石ちゃんがゼーヒさんと近くにコンビニに出かけ、おにぎり、カップうどん、ビール、翌日の朝食用のミルク、パン、煮玉子などを購入して戻ってくる。石ちゃんはワーキングタイムから解放し、自分の部屋へ。ゼーヒさんも今日はこのホテルの別室に宿泊。

とりあえずビール(ゼーヒさんが韓国No. 1とおすすめの"Hite"=ヒテ? ハイト?)を飲みつつ、子どもたちにおにぎりを食べさせるものの、日本のコンビニにぎりと似たような包装ながら、さすが韓国! けっこう辛いものが多かった! 辛いのは大人用にして、子どもたちにはなるべく辛くないのを選びました。カップうどんは、なんとお湯を入れた後に電子レンジに1分。フロントにでかけ、「電子レンジ貸してくれません? マイクロウェイヴある?」と聞くものの、相手は「マイクロ???」と要領を得ず。そこで一計を案じた僕は一言、

「チーン!」

これで通じました。レストランの厨房のを貸してもらってなんとか完成。

さすがに疲れました。外に出る元気もなく、そのまま泥のように就寝〜……あ〜、やっと1日目、書き終わった! この先どうなるんや……。