静かでいい。

 最近、1日の間にツイッターで書いたことをこのブログに載せる機能を知って、使ってみてますが、それだけ見たらなんのことやら分からないものや、特定の人への私信であったりすることもあり、あんまりわざわざ載せるのもいいアイデアではないのかもしれません。

 ただまあ、今日も生きてたか、ということくらいは伝わるわけですね。まあ、もうしばらく様子を見て、また考えましょう。

 昨日、今日と晴子は校外宿泊というのをやっていて(先生と一緒に泊まる)、家にいません。昨夜は、チャンスとばかりに妻は溜まっていた書き物をしに三浦海岸(元々彼女は横須賀育ち)の民宿で一泊してました。したがって父一人、息子一人の男コンビだけでした。静かで良かったよ。1対1っていうのは関係がシンプルでいいね。これが3人になると、それぞれが牽制しあったりしてちょっと微妙になってくるし、4人ともなるともう結構複雑だ。

 実は、僕は飲み会などでも大人数のものが嫌いで、人数が少なければ少ないほど気持ちよく、二人でサシで、というのが一番好きだったりする。なんでかというと、おそらく、片耳が聞こえないからなのだと思う。大勢の人といると、誰かが話していることが自分に向けられていることなのか、そうでないのかを判別するのにけっこう苦労し、そもそも聴力が半分しかないので、よく聞こえてない、ということもある。そうするというと、それを聞こうとするだけでけっこう疲れてしまう(そして話がつまらなければなおさらである)。これがサシであれば、相手の言うことは100%自分に向けられているものだということが分かっているし、距離も近いので、聞こえないという心配もない。

 思い起こしてみれば、小学校などで先生が不在の自習時間なんかになると、みんなが好き勝手にしゃべり出して、ワーワーした状態になったりするじゃない? ああいう時間がものすごく嫌いだった。生理的に受け付けないというか不安になるというかイライラするというか。これも後から考えたことだが、つまり、自分にとって必要となりうる音の情報を聞き取ることができなくなるのでは?という危機感に耐えられない。今でもそういうたくさんの話し声がしていたり、騒音の激しい状況は苦手だ。でも、コンサートなんかだと大音量であっても一向に問題ない。音楽にはひとつのハッキリとした向かう先があるし、そこではその音を聞くことだけがみんなの共通の目的になっているからだと思う。

 同じことで、声の小さい人は苦手。何度も聞き直さないといけなくて、相手にも申し訳ない、という気持ちが先に立ってしまって。

 耳が聞こえないということで、日常の場面では、僕はずいぶん察しのいい人間にはなったと思う。音の情報が少ない分、相手が今何を欲しているかを表情や仕草から読み取ることを自然と身につけていったのだろう。会社などでも、人が声に出して要求する前に、ペンを渡して驚かれたりすることがある。彼女がものを書くための道具を探していたことを、視線の動きで感じていたのである。

 もっとも、大きな勘違いをしたりすることもあって、そのときはばつが悪い。会話の受け答えでも、思いっきりとんちんかんな返答をしてしまうことがある。聞こえてないのに早合点してしまうのだ。仕方ないね。

 なんだか話がずいぶんそれてしまった。それで、今日は妻も戻ってきて、晴子を除いた3人での夜である(ヘルパー君と見習い君がさっきまでいたけれど)。やっぱり静かだ。楽である。晴子には申し訳ないが、まあ、たまにはこういう日もあっていい。